とても長い前置き(読まなくていいよ)
この世には悲しいことに、数多の人権問題があり、数多傷ついている人・困ってる人・被害に会っている人がいる。
そして、その問題に対して特権のある人、グラデーションな人、被害当事者の人がいたり、その問題に特権がある人が別の問題から見ると被害当事者になり得たりする。
誰しもに大なり小なり特権的な側面もあれば、被害当事者性があったり、誰しもが、立場や視点を変えてみると色々グラデーションがある。
そんな問題山積み、いろんな立場の人々がいる中で、1人のアクティビストが全ての問題に目を向けることは、普通に考えて不可能だ。
またアクティビストははっきりいってマイノリティだ。フェミニストも自覚してないだけな人もいそうだけどだいぶマイノリティだと思う。
そしてみんないっぱいいっぱいで余裕がある人はそうそういないんじゃないだろうか
やっと本題
めちゃくちゃ前置きが長くなったけど
「フェミニストなら〇〇に声をあげるべき」
「クィアなら〇〇に声をあげるべき」
「ヴィーガンなら〇〇に声をあげるべき」
もうこういうのやめません?
普通に苦しくない?なんでただでさえ頑張ってる属性の人限定で声を上げようと言われなきゃならないのか?
なんなら、そういった“属性”で自己を語ることに、ナショナリズム的な「日本人として‼️」的なものを感じたりする。語弊を恐れずに言うと、しばしば大日本帝国の波動を感じてしまう。
なんだか最近「声をあげよう」という文言を見るだけでもウヘエ...となってしまう自分がいる。
もっというと、これは“正しくない”発言だろうけど、「全ての人が解放されない限り誰も自由ではない」みたいなのも、理屈は大変正しいけれど、自分の人生ですら手一杯なのに、他人の人生まで背負わされてる感じで荷が重すぎるし、全体主義っぽいというか、すごい大日本帝国っぽい感じがして苦手です....「欲しがりません勝つまでは」と同じバイブスを感じてしまう。
みんなしんどい
みんな大なり小なり疲れている。パレスチナのジェノサイドは止まらないし、日本国内だって状況はめちゃくちゃ悪い。インターネットのおかげで地理的に遠い国の問題も目の前で起きているかのように錯覚するので、物理的な意味合いでの距離感もバグってくる。目の前で虐殺が起きているのに、自分の生活の中では虐殺のぎの字も起きていない。けれども生活の中で色んな問題は存在していて、それなりに傷つきながら生きている。
そんなふうに、ギャップが結構苦しいと思う時がある。先日も平和が大事的なコンテンツを見ていて、パレスチナのことがよぎって具合が悪くなったりした。
「リベラルに疲れた」「正義に疲れるとは何事か!」的な言葉も散見されるが、正確にいえば誰も踏まないということが、この社会構造で生きる上であまりに大変すぎること。リベラルがリベラルに求めるタスクが単純に多すぎることを「疲れた」と言っているのだと思う。少なくとも私はそうだ。
正義には疲れてない。リベラルから求められる完璧に疲れてしまった。
いつまでも変わらない社会構造と世界を見つめ続けることも...
話が脱線したが、とにかくアクティビストは、みんな大なり小なり疲れてたり、傷ついている。目を向けるべき問題は山ほどあるかもしれないが、1人が全部に目を向けるなんて不可能だ..
と、書いてたらある記事を見つけた
https://www.asahi.com/sp/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html
ここで言う無謬性はそれこそ、〇〇は〇〇に声をあげて的に、1人のアクティビストが全ての問題を把握してなきゃならないような圧と同じことのように感じる。
この記事では政党を居場所化してとあるが、私の体感だと前述のフェミニストとかクィアとか反差別とかヴィーガンとか、そういった属性が居場所化して(居場所化することは記事でも悪とはしていない)、無謬性(間違いを認めない)を求められているように思う。
前述の「〇〇なら〇〇に声をあげて!」も似たようなもので、属性で括られて、他者から行動を期待されすぎている。
逆にこの記事に対してちょっとよくわからないのは、政党が居場所化してるケースを見たことがないのでそこだけイメージできない。
特に立憲を挙げているが、党首選で野田が前に出てきてる時点で、左派の正義依存のコミュニティ化と言うのは正直違うように感じる。
どちらかというと「他野党を見下していて若干反共気味の立憲支持者による正義依存コミュニティ化」の方がしっくりくる。スレッズで実際そういう人とやり取りしたことがあったが、終始上から目線で、だいぶめんどくさかった。
あとは「正義中毒」という強めの表現も少し納得感がなく、個人が個人完結で正義中毒気味なら、コミュニティの無謬性の問題はあまり関係ないわけで(そのケースだと個人のメンタルヘルス上の問題はありそうだが)
どちらかといえば、正義中毒状態を他者の行動や考えにも向けてしまっていることが問題なのではと思う。
それこそ、個人の正義を他者...とりわけアクティビストや属性に“完璧に”適応したがってしまう部分にあるのではないだろうか
ようは「境界線がない」「他者の価値観の境界線を越えようとしてしまう」部分に問題があると思う。
良い例ではないが、私は選挙行かない人に対して「いや、行けよ」と思っている。しかし、結局行くか行かないかの決定権はその人にあり、「なんで行かないんだ!!!!」と恫喝する形で選挙に行かせてしまえばそれは境界線を越えてしまうので気をつけている。あくまで他人の行動を変えるには「依頼」が限度だ。
かと言って、ヘイトスピーチ、ハラスメント、明確な加害行為に対してはこのロジックは当てはまらない。「依頼」できる状況になければ、なんらかの方法で抵抗する他ない。ただ「友人がウッカリ、無知ゆえの差別発言をしてしまった」とかならまだ依頼できる余地があったりもする。
ここを深ぼってしまうと、対人コミュニケーション全般の話になりそうなので、あっさりまとめると、ここで言う正義中毒的な話は、被害当事者から加害当事者への抵抗のケースや、明らかにコミュニケーションが取れない、依頼が不可能なレイシストへの抵抗は含まれず。あくまで依頼できる関係性や同じコミュニティや思想同士の人々の間で起きてしまう事象にのみの言及だ、おそらくこの記事もそう言う文脈なのかなと思う。
逆に「これだからリベラルは(笑)」みたいな冷笑の反応をする人は、この記事でいう正義中毒に対して解像度が低いというか...そもそも、そういう状況にない人には理解が難しいのでしょうがないような気もする。
また「正義中毒」という強い表現だけに反応してしまっている人は、作者が1番伝えたいであろう、後述のコミュニティ内での無謬性に言及する部分を捉えきれていなさそうだし、もしくは結構図星なのかなとも思う。
私が思う解決策
「境界線を意識する」「自分の立場を事実ベースで把握する」「集団ではなく個であることを意識する」だと思う。
どこまでその人の行動に自分が介入していいのか?罪悪感などでコントロールしようとして、モラハラまがいのことをしてないか?など自己点検していくしかない。
もう一つは、インスタのこの投稿を見てほしい
https://www.instagram.com/p/C-6eoR1P1oV/?igsh=am50bWJrNjV
この方の記事の最後の7行に特に注目してほしい。
>本土で基地に反対する人がよく言う「沖縄の痛みを自分ごとにする」ではなく、自分たちが沖縄の選択肢を奪い、沖縄の犠牲の上にあぐらをかいている現状を自分ごとにしてほしい。
私はこの記事から、アライとしての立場みたいな部分が、かなりしっくりきた。
沖縄以外の話でもしばしば「痛みを自分ごとにする」的な文脈が見られるがずっと違和感があった。
それは、どちらかといえば加害サイドにいる人が、なぜか被害者に寄り添う以上に被害者と同化してしまうような状態になってしまい、正確な自分の立場が見えなくなってしまうからだ。
この状況になったアライは、あたかも自分が今加害されてるかの如く話し、ナイーブになっていく。だが事実はアライは加害されておらず、むしろ意図せず加害側の立場に置かれてしまっている場合もある。意図せずとはいえ加害側の人間なのにあたかも被害者の方に振舞ってしまうのは、程度によっては境界線を超えてしまっている。
逆に自責しすぎてしまい、自分の責任ではないことも理屈をこねくり回して自分のせいとし、事実を捉えられなくなってしまうこともあるだろう。日本に住んでいると自己責任を洗脳されがちなのでさもありなん。
長々書いたが、やはり自分がどう言う立場か?を正しく理解することが、ナイーブになりすぎて無謬性を強化してしまう事象をある程度防げると思う。
最後は、何かを語るときにの主語を「私」にすることだと思う。
私は別にフェミニストだから虐殺に反対しているわけではなく、私であるから虐殺に反対している。そういう自分より大きな主語で物事を感じ取っていないか?をやっぱり日々点検していくことが大事なんだと思う。
最初に「やること多すぎて疲れる」と言っておいてやることを増やしてしまっているけど()
まあとにかく自分のペースで社会を変えていくしかないし、できないことはできないのでしょうがないよね。と自分にも優しくやっていくしかない。
全然まとまってないけど、終了。
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